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日本的解像度

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ローレゾな街で日本人が恋しくなるハイレゾなものが、食パンと苺というのは本当によくわかる。日本の食べ物は本当に美味しいし、和食とか出汁とかいわゆる日本的なもの以外のレベルが高いと常々思っていたけど、それを「ハイレゾ」と定義するあたりがさすが小沢健二

比較的ハイレゾな食パンを売っている日系のパン屋(その名もPANYA)で食パンを買う時、日本の癖で「6枚切りで」と言ったら「トーストかサンドウィッチしか選べません」と言われる。それでも切る厚さが選べるだけましで、普通のローレゾなパン屋やスーパーではスライサーの設定がひとつしかないので厚さは選べない。

こんなにオプション好きで、選択肢を与えないと自由を与えていないみたいにやたらと色んなものを選ばせる国なのに、パンの厚さはこの街では選べない。ともかく、トーストの厚さに切ってもらえるなら問題ないと安心していたところに差し出されたのは、私の好きな6枚切りとサンドウィッチ用のパンの中間くらいの、見事に中途半端な厚さの食パンだった。

それでも、その中途半端な厚さとレゾリューションのパンを、ガスレンジの下のオーブンで大げさに焼き上げて食べる。細々と不満はあるけど、ここはローレゾな街なので贅沢は言えない。最近日本に帰ると、多少高くても本当に美味しい食パンをつい買ってしまうのは、このローレゾな食パン生活のせいだったのか。

※写真はNYにある日本人がやっているケーキ屋さんのケーキ。日本的ハイレゾにニューヨーク的感性も加わっていて、言うまでもなく美味しい。

書く筋力

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最近、自分の言葉で書いていない。コーヒーのブログもzineを出してからご無沙汰になってしまっているし、去年色々と考えがあって、翻訳中心に仕事を絞るようにしてからは、余計に自分の言葉で書くことがなくなった。

書かなくなったから書けないのか、書きたいことがないから書けないだけなのか、その辺はよくわからないけど、理由はどうあれ書く筋力みたいなものは確実に落ちているなと思う。

そもそも、そんな人に自慢するようなアスリートみたいな筋力があったわけではないけど、市民ランナーのように定期的に鍛えることで、土台のような筋力はできていたのだと思う。

筋力が落ちたところで、最近は翻訳の仕事ばかりだし、特に困ることもないだろうと思っていたけど、なぜか最近書けない、書かないことに少しフラストレーションを感じていることに気づいた。

あー、書きたいなと思っても、自分の頭の中にあるもわんとしたものをうまく吐き出すことができないのだ。括約筋が使えていないせいで便秘になってるみたいな感じかもしれない。(幸い便秘とは縁遠い人生だけど)

でも、こんな時はまた鍛えればいいのだと知っている。10年以上も毎日のようにヨガをしているし、最近はマラソンを走るのを目標にランニングもしているし、体の筋力も鍛えれば戻るとわかっているから。

そういうわけで、書く筋力を鍛えなおして、また気持ちよく頭の中のものを吐き出せるように、自主トレとしてブログを再開することにした。

書くだけなら、iPhoneのメモにでも勝手に書いてればいいのだけど、私の場合人に読まれるかもしれないという公共性と緊張感が、書く筋力を鍛えるのには欠かせないように思うので。

しばらく怠けた後で、どんな風に書く筋力が戻るのか、体力と同じようにやっぱり年齢とともに戻らなくなっていくものなのか、自分のことながら少し楽しみでもある。

everything is organic, everything is drag

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イースターエッグ。恐竜のタマゴではありません。かわいいけど、何とも体に悪そうな色。でも、最近はそういうのもたまに食べる。

ヨガを始めてから、健康志向が強くなって、ナチュラルでヘルシーでオーガニックな食べ物に執心していた時期もあったけど、今は多分ほどほど。ストレスなく食べたいものを食べる。

食べたいものは、体に良いと言われるものも、体に悪いと言われるものもある。コーヒーは飲む。ビールも飲む。牛肉はほとんど食べない。フラックスシードオイルで調子が良くなったと思えば、それも取り入れる。全部自分で決める。

日本から遊びに来た友だちが、ニューヨークの感想を「何でもオーガニック」と言ってた。核心をついててかなり笑った。ニューヨーカーに言ってもかなりウケる。

ビジネスと野心あふれる街では何でもオーガニック。

何かにすがるように執着すれば何でもドラッグ。

だから、自分の食べたいものを食べるのだ。

そうそう、体に良くも悪くもあるコーヒーのブログも始めました。

New York Hobo Coffee Life:http://nyhobo.hatenablog.com/

3年経っても

NY つれづれ

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3月9日(日)にセントラルパークで開催された、「Run for Japan」という東日本大震災のチャリティランニングイベントに参加してきた。震災のあった2011年から続いているイベントで、今年で3回目。前から気になっていたのだけど、この時期にNYにいることがなかったので、私が参加したのは今年が初めて。

当日は、美しく晴れ渡ったいいお天気だったけど、セントラルパークの池はまだ凍ってるほどの真冬の寒さ。走り出したら、顔以外唯一むき出しの手がしびれるくらい異常に冷たくなってびっくりした。

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走る前は、セントラルパークを走りながら、あの日から今までを走馬灯のように思い出したりするんだろうか、なんてセンチメンタルなことも少し考えていたのに、走り出したら「手が冷たい」「きつい」「歩こかな」と人間臭さ丸出しの感情しか出てこなかった。

人間なんて(私なんて)そんなもんだよなあと自嘲気味に思いながら、歩こうかなと思った瞬間「そうだ、今日は私は日本のために走ってるんだ」というのを思い出した。なんたって「Run for Japan」と書いたTシャツも着てる。せめて日本のためにもう少し走ろうと思い直し、また走る。

「日本のために」なんて考えていたら、こないだのソチオリンピックのことを思い出した。真央ちゃんとか選手の人たちもこういう気持ちだったのかな、意外と「誰かのために」と思った方ががんばれるものだなと、100万分の1くらい気持ちが分かったような気になってみたり。

でもそれがプレッシャーに代わるのはどういう時なんだろう?人によって、環境によって違うんだろうけど…などとぼんやり考えていたら、プレッシャーに感じるほど日本を背負ってはいなかったので、その気持ちが分かった気になる前に、またもや歩きたくなる。

やっぱり凡人には日本はそこまで背負えない、自分のために歩こう(単に疲れた)と思った矢先、今度は同じイベントの参加者のアメリカ人男性を道端に発見。話しかけたら、どうやら彼女がどこにいるか探しているらしい。「多分私が最後尾だと思うよ」と言ったら走り出したので、そのまま成り行きで一緒に走ることに。

あんなに「もう歩きたい」と思ってたのに、人とおしゃべりしながらだと意外と走れる。しかも、この人は歩こうとしていた私を励まそうとしているな、というのが伝わってきたので、今度はこの人のために一緒に走ろうと思った。

それにしても3年前は、日本のことをこんな風に思いながら、アメリカ人に励まされながら、セントラルパークを走るなんて思ってもみなかった。人生なんてほんと何が起こるか分からない、と思っている隣では、アメリカ人が「日本人女性の名前って似たようなのが多くて、紛らわしくて覚えられないんだよ。アヤコ、ヨウコ、でユウコだろ?ユキコ、ユキもいるな」などと言っている。

結局、3年前のあの日も、その後のあの日も、3年経った今も、私はやっぱり私のことしか考えられないのだな。なんだかとても利己的な人間みたいだけど。

私がセントラルパークで日本のことを思いながら、歩きたいと思いつつがんばって走ってみたところで、きっと被災した人には何の影響もないのだろうけど、「知らない誰かのことを思う」という気持ちに少しさせてくれただけでも、私はこのイベントに参加してよかったなと思った。これもまた利己的な感想だけど。

最後は、英語で会話しながら走ることはもちろん、ただ走ることにも本当に疲れて「私は大丈夫ですから、先に行ってください」と丁重に並走を辞退して、自分のためにまったりと歩いてゴールしたのでした。

あんなにきついと思っていたのに、終わってみれば爽快な気分で、冬に走るのも気持ちいいものだなと思ったのは意外だった。のど元過ぎれば熱さも寒さも忘れるもので、忘れることはポジティブに前に進むためにやっぱり大事なことだね。

3年経っても忘れられないことの方が多いだろうし、忘れたくないこともたくさんあるだろうけど、忘れることも悪くないと思えたらいいなと思う。

 

細胞が入れ替わる1週間

NY つれづれ

先週からまたNYに。

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時差ボケが治るのにはやっぱり1週間くらいかかる。私の場合は。

贅沢な過ごし方だと思われるかもしれないけど、NYに来たら1週間くらいは特別なことは何もしない。時間のギャップを埋めようとする体と睡眠リズムに身を任せながら、淡々と仕事して、ヨガをして、ご飯を食べて、あとは眠る。

外に出かけない訳でもないし、目に映る景色も、氷みたいに冷たい空気も、耳に入るすべての音も違うから、それだけでも体にとっては特別なことをしてるようなに思える。

そうやって少しずつ時差ボケが治っていくのと一緒に、私の細胞も少しずつ入れ替わっていくような気がする。それがこの1週間で起こったこと。

 

おやすみなさい、小野田さん

つれづれ 心に残る言葉

ニュースで小野田さんが亡くなったと言っていた。終戦を知らず、30年近くもフィリピンの山の中に隠れていた小野田さん。帰国後はブラジルに移住して、その後日本に戻ってきて、最近では生きることや自然の大切さを教えたりしていたそう。享年91歳。

このニュースを見ながら、この前97歳の私のおばあちゃんに言われたことを思い出した。

時代はどんどん変わるから、深刻になり過ぎずに楽しく生きなさい。

私の詳しい仕事や暮らしぶりは知らなくても、どうやら最近はしょっちゅうアメリカに行っているらしい、ということは知ってるようで、その前はうつ病で会社を休職したり、会社を辞めてからは自由業をしていることも、多分何となくは分かっているのだと思う。だからこそ、このおばあちゃんの言葉はとても心にしみた。

おばあちゃんは、小野田さんよりも6歳上で、戦前も戦中も戦後も知って、インターネットやデジタルが氾濫する今の時代も知って、それでもまだ生きている。その人の口から「時代はどんどん変わる」と言われると、それはもうすごい説得力で、これは主観ではなく事実だとすんなりと思う。

今日、小野田さんのニュースを聞いてふと思ったのは、おばあちゃんや小野田さんの世代の人たちは、若い頃から今までの間に180度に近いくらい価値観や時代がガラリと変わった人たちなんだよね。それまで信じてきたことを、ほんの数日、数カ月で否定されたり、これからは違うと言われたり、多分そういうことがあっただろうと想像できる。そんな中を生き抜きながら世間を眺めていたら、「時代はどんどん変わる」と実感するだろうなと。

おばあちゃんが終戦を迎えた時、戦争に負けたアメリカに自分の孫が気軽に何度も行くようになるなんて思わなかっただろうな。でも、今の私の暮らしや生き方を何となく理解して受け入れながら、その上で「楽しく生きなさい」と言ってくれる有り難さ。懐の深さ。

その言葉を言われた日に「おばあちゃん、もうすぐ100歳やね。あと6年生きて、東京オリンピックも一緒に見ようよ」と言ったら、「いやいや、さすがに…」と苦笑してた。もう随分前から生きることには飽きたと言っているし、年々できなくなることも増えているし、体もあちこちガタが来ているけど、それでも限られた生活の中で楽しく生きているのが分かる。おしゃべり好きなおばあちゃんは、ケア施設の若いスタッフのプライベートとかもよく知っている。どうか少しでも長生きして、スタッフの裏話だけじゃない私の知らないことをもっと教えてね。

無いものねだり

つれづれ yoga

この間、自由が好きだから孤独を選ぶ、と書いたように思われている気がするけど、それはかなり究極の選択に近くて、もちろん普通に独りは寂しいなという感覚はあります。

と、なぜかいきなり言い訳口調。一体誰に言い訳をしているのやら。ただ、何だか誤解されているような気がしたので。

よくよく考えると、生まれてこの方一人で暮らしていた時間の方が断然短い。10年近く一人暮らしをしていたけど、その間も友だちが泊まりに来ることが多かったり、半分誰かと一緒に住んでいるような期間が長かったり。最近よく行くNYでも常にルームシェアだし、本当に一人きりで暮らしている時間というのは、実はあまり長くない。

だから、孤独でもいいから自由がいいと思うのは、実はただの無いものねだりなのかもしれない。

そんなことをぼんやり考えていたら、山下和美の『不思議な少年』の話を思い出した。この漫画はオムニバスというのか、基本的には一話完結で、全体を通して不思議な少年と呼ばれる、時空を自在に移動して姿形も割と自由に変えられる少年が登場する。思い出したのは、その中で一番好きな「タマラとドミトリ」という話。

一番好きというのとは少し違うかもしれない。最初に読んだ時は、なぜか嗚咽するほど号泣した。その後も何度か読んだけど、その度にやっぱり涙したり、毎度心をぐわんぐわん揺さぶられる感覚があった。

詳しいストーリーを書いてしまうのは憚られるけど、基本的には自由を求めてどこかへ行こうとして、失敗して失敗して失敗して、最後には不自由さとか理不尽さをひっくるめて現状に幸せを見出す、みたいな話。最終的に「足るを知る」境地に達したのだろうね。そして、それこそが幸せじゃないですか、と語りかけてくる。

確か漫画の中で「人は暗闇の中で光を求め、光の中で暗闇を求める」みたいな台詞が出てきたと思うけど、正にこれこそ無いものねだり。暗闇の中で光を求めるのはまだ分かるけど、光の中で暗闇を求める必要なんて無さそうなのにね。結局、自分が無いものねだりをしていることに気付けるかどうか、ということなんでしょう。

「足るを知る」、言葉では簡単そうだけど、自分のお腹の底からそれが湧いてくるほどに今の自分に満足できるまでは、まだまだ時間がかかりそうです。